音楽聴取時に次時刻の音に対して生じる音楽的期待は,ヒトの自発的な予測に起因する知覚現象のひとつとされる.この現象は西洋古典音楽に端を発する調性音楽において重宝され,一般に音楽理論と呼ばれる形でまとめられ,作曲上の指針として用いられてきた.グローバル化の進んだ現代社会においても,調性音楽は文化的な差を問わず広く普及している.このことから,音楽的期待に関する研究は,ヒトの持つ普遍的な脳機能を明らかにする上で重要であると言える.
20世紀半ば以降,実験心理学や神経科学において,音楽的期待に関して様々な知見が得られてきた.なかでも和音進行に対して生じる期待は,音楽理論との対比が容易なことから最も研究が進められており,和音進行に対する期待の大きさが、和音進行の音程とそれまでの文脈における調性との二種類の変数に影響を受けることが示唆されてきた.しかし,これらの研究では音楽理論を前提とする分析が行われてきたため,調性が明に判定できない条件における期待についてはよくわかっていない.また,音楽理論は経験則の集積に過ぎないため,調性と期待の関係は十分に説明されていなかった.
そこで音楽理論を仮定しない分析手法として,心理実験のデータに基づいて内的な計算過程をモデル化する計算論的アプローチに着目した.計算論的アプローチは,学習や意思決定といった複雑な認知機能を取り扱う神経科学において発展した,構成論的な分析手法である.
本研究では,音楽理論で扱われていない短い連鎖和音における知覚に着目し,和音進行に対する期待が生じるメカニズムについて調べた.まず,和音進行に対する主観的整合性を問う心理実験を行い,統計的検定及び多変量解析によってその回答データの性質を分析した.その結果,一時刻前の和音からの音程が強く回答に影響する一方、直接隣接していない和音からの音程も寄与していることがわかった.
続いて,この結果を満たすように計算過程をモデル化し,候補モデル間でどの程度実験データが説明できるかを比較した.その結果,聴取した和音進行から音楽理論上の調に対応する隠れ変数を動的に更新し,その調に基づいて期待を生じるとするモデルが,実験参加者の心理評価をよりよく説明できた.また,推定されたモデルと音楽理論を比較したところ,音楽理論上特に推奨される和音進行に対して,モデルから算出される期待の大きさが高い値を示す傾向が確認できた.一方で,これまでに指摘されていない和音進行においても,高い期待を示す例が見受けられた.
推定されたモデルは,従来研究の知見を統合的に説明するものであり,ヒトの自発的な予測に関わるメカニズムの一端を明らかにできたと言える.また,計算論的アプローチによって,知覚的な側面から従来の音楽理論を拡張できる可能性が示された.